今年に入って、アクティブラーニングに関するイベントの企画をしたり、そういうイベントに参加したり、私自ら講演したりしています。
今になって思うのですが、アクティブラーニングって何のことを言うんでしょうね。東京大学のイベントの時に、中原先生@東京大学がアクティブラーニングという言葉が言われ始め、人によって言うことが違い、アクティブラーニングについて話す人の数だけアクティブラーニングの考えがあるといったことを言われていました。中原先生のお話では「インプットートランスフォーム(自分とは異なる他者と触れることで一回り大きくなる過程:ロゴフの話が入っていてわかりやすかったです)ーアウトプットが有機的につながっている学習形態」というように言われていたように思います。人によっては問題解決学習、プロジェクト学習などの学習者中心の学習形態のことを言い、人によっては演習型だろうが、講義型だろうが関係なく、学習者の主体性を引き出すことができる仕組みが入ったものと言います(後者の方がしっくりしますね)。
ちょっと心配になるのは、「アクティブラーニング」という言葉が先行してしまい、意味も乱立し、結局何を意味しているのものなのか、わからなくなってしまうことと、なんでもかんでもアクティブラーニングという人が出てくるということです。
前者の方は学会とか、シンポジウムがある度に「アクティブラーニング」をどういう意味合いで使用されているのか、確認しないと行けないのが嫌ですね。溝上先生@京都大学が2007年に名古屋大学の高等教育関係の紀要でアクティブラーニングについて整理されていらっしゃいますが、溝上先生もあの紀要で書かれたことをもう一度整理しないと行けないとおっしゃってました。溝上先生が書かれた2007年から3年の間でもこのアクティブラーニングという言葉はいろいろ解釈され、混沌としているのだと思います。
後者の方は教育においてはいつも問題になるようなことだと思います。ICT、特に流行の技術がちょっと出てくると、それを宗教的に信じて使ってしまう傾向。それと似たようなもので、なんでも「アクティブラーニングがいい、導入すべき」と言っちゃう人が出てきちゃうんですよね。これは困ったものです。しかもこの言葉自体がいろいろな解釈を生んでいることをわからずに・・・どういう意味なのかにもよりますが、例えば、問題解決学習やプロジェクト学習のような社会構成主義的学習観に立つ学習形態のことを指すのであれば、そういう学習形態が合うものと合わないものがあると思います。2月22日に私がいるセンターが主催しました「アクティブラーニングが創る大学教育の未来」では「そもそもアクティブラーニングをする必要はあるのですか?」というコメントがありました。この学習形態のことをアクティブラーニングというのであれば、その通りでしょう。必要がない、というか、合わないものがありますよね。
しかし、学習者の主体性を導きだすための仕組みが組み込まれた学習形態/モデルという意味になるならば、必要です。それがない授業はまずいでしょう。この話であれば、アクティブラーニングをやらないといけません!という主張は理解できます。ですが、この話は言葉が変わっただけで、ここ何十年もずっと言われてきていることなので、ここで敢えて、どうするものなのか?という疑問はあります。
ここ数ヶ月、アクティブラーニングについていろいろ関わることが多かったです。渡辺君@首都大からは「なんか、アクティブラーニングという言葉が金沢から聞こえますね」と言ってもらえたのは、なにかしらいろいろ頑張ったからかなとありがたい気持ちになるのですが、気をつけて考えて進めていかないと行けないことだと思いました。あと宗教的にハマる先生や宗教的にアクティブラーニングを連呼する先生を我に戻すのも忘れないようにしないといけませんね。
アクティブラーニングについて思う
2010年11月21日
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